とら子の今日の気持ち。

2023年が始まりました
あっという間に3週間近く経ちましたが… 今さらながら、お伺いします。 「新しい年、皆さんはどのように迎えられましたか?」 毎年私はお正月を迎える前日(大みそかですね)に、歯ブラシやシーツを新しいものに替えたりします。 もちろん普段からこういうものはこまめに替えているけど、やはり洗いたてのシーツ、新しい歯ブラシで新年を迎えたいと思うのです。 昨年もコロナ禍が続き、戦争、災害と落ち着かない一年でした。 個人的な生活においても、いろいろとこころが揺るがされそうになることもあったかも知れません。 でも、いや、だからこそ、新しい年を新しいこころで迎えたい。 今までの自分を振り返って、”こうすればよかった” ”こうなっていたら…”と思うことがあるでしょうか。 「明日、新しい人生を始めたい!」 できます。 明日、と言わず、今日からでも。 先が見えないような日々に、イエス・キリストは私たちのこころを新しくし、永遠の未来の希望を与えてくださるのです。 “だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。” (新約聖書)

今年もあと3日
今年もあと3日となりました。 皆さんにとってこの一年は、どんな年だったでしょうか? あっという間の一年、くるくると変わっていく目の前の状況に、気がついたら12月! 「忙しい」という字は、「こころ(りっしんべん)をな(亡)くす」という成り立ちだとか。よくできているものですね。 “ここでちょっと立ち止まり、手を止めてみよう。” “自分が今、どこに向かっているのか、もう一度ゴールを確認しよう。” キリストを信じ、愛する私は、神の愛を目標とし、天の御国をゴールとして歩んでいます。 もちろん、足りないこと、失敗もたくさん(ホントに;)。 でも、その度に主イエス・キリストのもとに生き、イエス様の十字架を見上げ、すべてを申し上げ、罪の赦しと平安を受け、心を入れかえて軌道修正し(→「悔い改め」と言います)、また前に向かって歩み出すのです。 “すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標めざして一心に走っているのです。” (聖書) 新しい年、皆さまも、主にあって新しい心で新しい歩みを始められますように!

少し前にYouTubeで全編津軽弁の動画を見ました。有名な歌手の方がノリノリのラップ調のリズム(+少し演歌?)で歌っておられるのですが、歌詞はすべてコテコテの津軽弁、聞いていて意味がわかるような、わからないような…。「通訳して~!」という声も上がったとか。 一般家庭にテレビが普及したあたりから、特徴ある「方言」も少しずつ聞かれなくなってきているような気もします。とはいえ、その地方の生活や文化が象徴されていたりするのが「方言」であり、標準語では表しきれないこころのあたたかさを絶妙に表現してくれるのも、この「方言」です。世界一のベストセラー、聖書は標準語で書かれています。にもかかわらず、「読んでもよくわからない」「難しい」と言われてしまうのも聖書。一方で、神の国の生活や文化を表わし、全世界の人々、ひとりひとりへの神様の愛のこころを伝える、あたたかいことばのひとつひとつが詰まっている書物でもあります。もし「よくわからない」と思われるなら、ご一緒に聖書を味わってみませんか?ラップ調?かどうかはわかりませんが、きっと神様の愛のことばが、あなたのこころにも響くと信じます。 

お庭に咲いていた、名も無き花。 何のお世話もしていないのに、そっと花を咲かせ、見る者の目を楽しませてくれています。 少しブログをお休みしてしまいました。その間に、いくつもの悲しい事件が起きました。 いのちはどこから来るのでしょう? 聖書では、すべてのものは創造主なる神様によって創られた、と記されています。そして、それらはすべて愛をもってつくられました。 「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。…」(創世記1:31) 誰かが愛されて、誰かが愛されない、ということがあるでしょうか。 神様にはありません。 誰かのいのちは重くて、誰かのいのちは軽い、なんてことは、断じてありません。 私たちは自分のいのちはもちろん、他の人々のいのちも、心から大切にしなければならない。そう思うのです。 こんな小さな花にさえ、いのちを与え、美しく装ってくださる神。 創造主なるお方は、すべての人ひとりひとりに絶えず目を注ぎ、心にかけ、永遠の愛をもって語りかけてくださっています。 主イエス・キリストの十字架に表された永遠の愛。 その愛に、どうか気づいてください。

桜の木の下に、とげのある小さな木があちらこちらと何本も生えていました。この地に来て3年、ただとげとげの枝を伸ばすばかりで、一度も花を見ることはありませんでした。しかも、増える!増える!(**) あんまり増えるので、コンニャロー(?)とばかりに少し剪定しました。その数か月後…。白い、小さな花が!Σ( ̄□ ̄;) 調べてみると、野ばらでした。茂った葉の濃いみどりに真っ白な花びらがよく映えて、さらにおしべの黄が色を添えます。“こんなにきれいな花なのに、どうして今まで咲かなかったの?” 私たちが来るまでの数年、ほとんど人の手がつけられていなかったお庭。きっとこの野ばらも、花を咲かせるために3年間、力をためていたのでしょう。今何も見えるものがなくても、見えないところで準備がされている。与えられたものに忠実に、誠実に日々を重ねていくなら、いつかば必ず花を咲かせ、実を結ぶ。神様はその「とき」を定め、用意しておられるのです。 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(旧約聖書)

「僕が一生、全力でお守りします。」雅子皇后さまが天皇陛下からプロポーズの際にお受けになったおことば。ご婚約発表の記者会見をテレビで観ていて、なんともいえない、あたたかい感動を覚えたことを今も鮮明に思い出します。生涯ともにいて、どんなときにも自分を全力で守ってくださる存在。都会でひとり仕事に生きていたその頃の私には、考えもつかないものでした。誰にも頼れない、自分のことは自分で守る。心は絶えず戦闘状態だったかもしれません。しかしある時、「目に見えない大きな存在」に支えられていることに気づきます。時が流れ、どんなに時代が移り行こうとも、決して変わらない存在。安泰とされてきた大企業が倒れ、これまでにない大きな災害がいくつも起こる…。何に信頼し、何に頼ったらよいのか。道にまよったとき、途方に暮れてしまったとき、私たちの心を照らし、道を示し、手を携え立ち上がらせてくださる大いなる御手がそこにあるのです。 「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖(あがな)い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(旧約聖書)

何の変哲もない、赤いギター。もう何年も倉庫の中で眠っていたものでした。カバーの中は、ほぼ全体にカビとサビ。よく見ると、ボディ(木製の部分)の中もカビで真っ白!(**)もちろん、音なんて出ません。もう処分かな…とそのままにしていた、ある日。「ちょっと来て」と呼ばれていくと、その手には赤いギター。白く覆ったカビもなく、つまびくたびに、ポロン、ポロン…。「へえ、けっこういい音出てる!」聞くと、朝からせっせと拭きそうじ、ボディの中までカビや汚れをきれいに拭き取り、サビも落としてピカピカに、ついには弦も新しく張り替えた!かくて、ギターは本来の色と音を取り戻しました。 あと2週間足らずで新しい時代を迎えようとしています。しかし目まぐるしく移り変わっていく時の流れに、私たちの心も本来の色や音が失われてしまっていないでしょうか。あの赤いギターは色と音を取り戻しました。毎週の礼拝で神様への歌を奏でています。私たちも本来の心を取り戻し、それぞれに与えられた音色で新しい時代を奏でたい。それをしてくださるのは、救い主イエス・キリストです。 “しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。”(聖書)
先日ある方に、書類を郵送する代わりに写メを送ったときの話。「若干ピンボケですけど(笑)、まあ見えなくはないので…」なんと!事務連絡の書類がピンボケでは!送った意味がありません。(ごめんなさい) …少し話が飛びますが、聖書にも「ピンボケ」の話が出てきます(相当飛びました(汗)。「ピンボケ」⇒焦点があっていない⇒的を外している、的外れ。もっと分かりやすく言うと、「本来のゴールから外れた生き方をしてしまっていませんか?」ということ。すべての人は、神様に似せてつくられました。つまり、神様のすばらしいご性質をすべての人が持っているのです。そして、そのすばらしい性質を生かし、誰かのために役立て、さらに磨き上げるために、この人生がある。そういうことなのです。私たちが「生きづらい」「希望がもてない」と感じるなら、それはこの世の中で、ゴールを見失わされているせいかも知れません。大気汚染が進むと、前が見えなくなるような感じでしょうか。私たちは神様の愛のご性質を受けています。その究極の姿は十字架のイエス・キリスト。…おっと、ここから先は字数が足りないので、日曜日の午後3時、教会にお越しください(^^)/
新元号が発表されました。 「令和」-“人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。” そんな意味が込められているそうです。 「人々が美しく心を寄せ合う」 互いに相手を思いやり、その人の存在を大切にし、喜び、また何かがあっても赦し合う。そういうことではないでしょうか。それは「互いに愛する」とも表現できると思います。 教会はまさにそれをめざしているところ。 …というと、スゴイなーという感じですが、「めざす」というところがミソ。 誰ひとり完璧な人はいない、人間は不完全な存在です。みんなそれぞれ弱さがあり、足りなさを感じている。だからこそ、互いに違いを認め合い、その弱さを赦し合って、カバーし合っていこう。 そういうところなのです。 “見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。… 主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。”(旧約聖書) 神様の愛によって赦された者たちが「美しく心を寄せ合う」ところ。 安心してこころから笑顔になれる。 そんな教会でありたいと願うのです。              (写真は梅ではなく桜です^^;)